地下室の手記 

「一杯の茶のためには、世界など滅びていい。」




ドストエフスキ−の“地下室の手記”の中の一節。



20代前半に初めてこのくだりを読んだ時、お茶のもつ可能性を知りました。



まぁ、“地下室の手記”は極端なシュチエーションですが。









「世界と一杯のお茶を天秤にかけるなんて、話が飛び過ぎて理解に苦しむ。」



そうおもわれる方が大半でしょう。






僕にとっては、お茶 = 珈琲 。



一杯の珈琲のためには、世界なんて滅びても構わないというほど


珈琲に餓えてはいないのでわかりませんが、



逆に、もしもこの直後に世界が終わるなら、最後にどんな珈琲が飲みたいだろうか。


暇なのでそんな事を考えたりしています。




お茶と珈琲。


茶道があるなら、珈琲道があってもいいのではないでしょうか。



アジアにティーセレモニーがあるように、エチオピアではコーヒーセレモニーがありますしね。


あっ、ちょっと違うか。




それはより美味しく珈琲を飲むための、提供側、そして飲み手の心構えのようなもの。






一杯の珈琲が世界を変える事もある。